プロフィール

河合真紀(かわいまき)

1977年10月生まれ てんびん座 A型
夫と二人暮らし。

台東区御徒町育ちの下町っ子。
大学では中国語を専攻。
大学2年生の時に中国の天津に2年間留学。
卒業後、中国系のベンチャー企業に3年間勤務。
その後は派遣社員として複数の企業に勤務。
メガバンクで8年間融資事務を担当。
26歳の頃、人生を揺るがす大きな問題に直面する。
それをきっかけに心理カウンセラーに興味を持ち、神戸メンタルサービスのカウンセラー養成コースに通い始める。
養成コース卒業後、スクールのスタッフとして40歳まで勤め、14年間「心」について探求し続ける。
脳内視力🄬のメガネに出会い、「眼鏡」というものに心惹かれる。
2017年12月より脳内視力🄬の松本氏のもとで事務を担当するかたわら視機能ついて学ぶ。
2019年5月にイノチグラス 発達する眼鏡™のカラー目育士
2020年8月に目育士の認定を受け、現在に至る。

 

みんなと同じであることが正義

みんなと同じように感じられない。
子どもの頃から長年思い悩んできました。

何か特別目立って人と違うところがあったというわけではありません。
友だちと遊んでいるとき、
家族・親戚と一緒に過ごすとき、
何気ないことで違和感や疎外感を感じることが頻繁にありました。

今でも覚えていることがあります。
幼稚園の年長の時の話です。
「大人になったら何になりたいか」
というテーマで絵を描く時間がありました。
仲の良い友だちはみんな揃って看護師さんの絵を描きました。
私はなぜか婦警さんの絵を描きました。
とりたてて婦人警官になりたいと思っていたわけではありません。
特に何も思いつかなかっただけです。
だからといって、みんなと同じ看護師さんの絵を描きたくはありませんでした。

違う絵を描いた結果、たびたび仲間外れにされるようになりました。
一緒にお絵かきをしているとき。
おままごとをしているとき。
「私たちは看護師になるの。まきちゃんは違うんだから一緒に遊ばない。」
そんなことをしばらくの間言われました。

幼稚園児の何気ない会話です。
そこに大きな意味はなかったと思います。
ですが、私は一緒に遊んでもらうためには同じことをしなきゃいけないんだ。
悲しくて、寂しかっただけに、余計にそう思いました。

みんなと同じであることが正義であり善である。
いつからかそう思うようになっていました。
だから、周りに合わせることがなによりも優先されることでした。
みんなと同じだと感じられて、初めて安心できました。

周りの顔色を見て行動することが当たり前でした。
今、自分は何を求められているのだろう?
どう行動するのが正解なのだろう?

自分の目の前にいる人に合わせることが私にとっての正解でした。
だから相手によって言うことが変わり矛盾が生じることもありました。
自分としては目の前の人に合わせることが最重要課題です。
なにも間違ったことをしていないと自信を持っていました。
それでも、友だちからは八方美人とかコウモリとか言われるようになりました。
誰にでもいい顔をしてどっちつかずの態度をとっていたからでしょう。

ですが、だいたいは好かれることが多かったです。
相手が望むような言葉を発し、望むような行動をするので、受け入れられて当然でした。

にもかかわらず厄介なことに、
目の前の人に合わせることが最重要課題としているくせに、
自分なりの考えやこだわりが小さいころから比較的強かったように思います。

自分の考えがあるにもかかわらず、
そこには目を向けず相手に合わせようとします。

和を乱さず同じように行動することが善なのですから、
自分の考えは抹殺します。
抑え込んだ想いというのは、リミットを超えると時々噴出します。
家に帰ると突然泣き喚いたり、癇癪をおこしたり。
思い返すとひどい行動をしていたものでした。

だからといって、
家が安心安全な場所だったかというとそうでもなかったのです。
両親、兄とは共通言語がないと小学生の頃から感じていました。
家族はまったく私という人間を理解してくれない人たちと感じていました。
自分は異分子と感じ、居場所が欲しいといつも思っていました。

念のため補足しておきますが、
家庭内で虐待があったとかそういうわけではないです。
夫の目から見るとむしろ溺愛されているように映るそうです。
ただ、私が求めている愛情の形が、そこにはありませんでした。

年齢を重ね自分なりの考え、哲学を積み重ねていきました。
そうすると周りに合わせることはどんどん難しくなりました。

自分の気持ち、想いを大事にしたい。
そういうふうに考えることが多くなりました。

周りに合わせているからからこそ受け入れられていると思っていました。
だから、自分の想いを大事にして行動することは居場所を失うこと。
そう考えていたのでなかなか自分の想うようには行動ができませんでした。

私が26歳の時のことです。
家族・親戚一同で信仰している宗教をこれ以上続けられないと思ったことがありました。
何度も自分の考えを抑え込み、だましだまし折り合いをつけていました。
ですが、ある日突然頑張って保っていた糸がプツリと切れました。

そもそも宗教を辞めたいだなんて口にすることはできない。
理由を言っても、誰にもわかってもらえない。
家族と同じように信じることができない私には居場所がない。
死ぬほど悩みました。

そこで、私は「病気」というものをつかって周りをねじ伏せました。
その時の私には他に思いつく方法がなかったのです。
睡眠障害になり、拒食症になり激やせしました。
元気いっぱいの笑顔はなくなり、目の光もかげりました。
心療内科に通い、医師から言われたことをそのまま家族に伝えました。
当時は心療内科が今ほど身近なものではありませんでした。
受診しているというだけで周りの私を見る目は変わりました。

自分で周りに合わせていたのに、
いつしか周りから期待される真紀ちゃんでいることに疲れてしまったのです。

真紀ちゃんならできるよ。
真紀ちゃんなら大丈夫。
一緒に戦おう!
一緒に祈ろう!

病気をきっかけに、誰も言わなくなりました。
私の周りから誰もいなくなりました。

恐怖と孤独を感じるのと同じくらい解放感を感じました。

薬に頼るのではなく自分の力で乗り越えたいと思いカウンセリングを受けました。
カウンセリングを受け、心理学に触れていくうちに、人の優しさこそが傷を癒してくれると感じました。

同じように苦しんでいる人の支えになりたいと思い、
神戸メンタルサービスのカウンセラー養成コースに通い始めました。
コース卒業後はスクールのスタッフとして
みんなの「お家」でありたいと想いスクール生と向き合ってきました。

わかってもらえない。
居場所がない。
そう自分が苦しんでいたからこそ、
私は目の前の人のことをわかりたい。
理解する努力をしたい。
その人の居場所になりたい。
その想いを胸に学びを進めました。

自分の中に押し込んでしまった苦しみから解放されるように。
そして、その人がその人らしく輝けるように。
長年お手伝いをさせてもらっていました。

その人がその人らしさを取り戻し、輝く瞬間が大好きでした。

 

私がメガネに興味をもったきっかけ

30歳を過ぎた頃から、
ふとした時に右目が見えないと感じるようになりました。
具体的には、パソコン作業をしていている時です。

パソコン作業をしていて、
顔を上げて壁にかかっているスケジュールボードを見ます。
すると、右目が真っ暗になったように感じるのです。
片目ずつ瞑って見ると何の問題もなく見れます。
手で左右の目を順番に隠してみても普通に見れます。
眼科に行っても異常はないと言われます。
メガネを作り替えに行っても
「今かけているメガネの右目の度数は強いくらいだ」と言われます。

確かに右目が真っ暗に感じたはずなのに、何の問題もない。
釈然とせず、モヤモヤが続きました。

ちょうどその頃、友人に「脳内視力🄬」のセミナーに誘われ
軽い気持ちで参加してみました。

セミナー中に視線についての簡易検査を受けます。
その時に初めて両目の視線のコントロールが
うまくいっていないということを知りました。

脳に異常があるわけではなかった。
原因がわかったことでとても安心しました。
すぐにこの脳内視力🄬のメガネを作りたいと思いました。
ですが、当時の私にはとても高額で簡単に手が出せるものではありませんでした。

簡易検査を受けてから一年後にようやく実際にメガネを作りに検査に行きました。
詳しい検査をすることで、自分の見え方の癖を知り、納得できることがたくさんありました。

右目が真っ暗になったと感じる理由。
街中でゴキブリやネズミを誰よりも早く見つけてしまう理由。
証明写真を撮るときに、自分では正面を向いているつもりなのにいつも首が曲がっていると指摘される理由。
机などにしょっちゅう太ももをぶつけて常に痣がある理由。
などなど。

まさか、見え方が原因だとは思わないものばかりでした。
自分はどこかおかしいのではないかといつも不安に思っていました。
それが見え方から来ていると知れたことで自分への不信から解放されました。

そして出来上がってきたメガネを初めてかけたとき。
本当に世界がキラキラ輝いたのです。
その感動は今でも忘れることはできません。

見える世界が色鮮やかになり、立体的になりました。
しばらくは階段の上り下りが怖いくらいに感覚が変わりました。
そして、右目の違和感もなくなり、見ることがすごくラクになりました。

見え方が原因で不調がおこっている人。
その理由がわからず困っている人。
そんな人は多くいるかもしれないと思うようになりました。
そしてそんな人たちのお役に立ちたいと思い始めました。

10数年勤めていた心理カウンセラー養成スクールをそろそろ卒業しよう。
ちょうどそんなことを考え始めたタイミングでもありました。

今度はメガネという道具を通して人のお役に立ちたいと考えました。
メガネ作りも相手の話を聞くのが基本です。
今まで学んできたことをじゅうぶんに活かせます。

その想いを胸に脳内視力🄬の松本先生のもとで事務局を担当させてもらいました。
事務のかたわら視機能について3年ほど学ばせてもらいました。
その途中で松本先生を通じてイノチグラスに出会いました。

 

私がイノチグラスを多くの人に届けたいと思ったきっかけ

私はすでに脳内視力🄬のメガネで大きな大きな感動を味わっていました。
だからなのか、初めてイノチグラスを体験した時
正直、良さをあまり実感できませんでした。

でも、そうなんだけど、よくわからないんだけど、なんだか面白いし、すごく惹かれる。
そう思い、イノチグラスの養成講座を受けることにしました。

そして、講座を受ける前にイノチグラスを実際に作ってみることにしました。
その時に設定した目標は
「自分が自分らしく前に出ていけるようになること」でした。
イノチグラスはメガネをかけてどうなりたいか?
どんな世界を見たいかの目標設定をします。

当時は社長の指示で異業種交流会に参加する機会が多くありました。
ですが、なかなか社長の期待通りには動けませんでした。
場の雰囲気に尻込みしていまい思うように前に出ていけませんでした。
本来の自分ならどんどん前に出ていくはずなのに。
だから、そこを何とかしたいとの思いからその目標にしました。

その後、目標は思いもしない形で実現しました。
イノチグラスを作ってから1年5か月後。
期せずして独立をすることになっていました。

補佐的立場が好きなので、独立願望は皆無でした。
まさか、独立してイノチグラスを提供していくことになるなんて!
誰よりも自分が一番驚きました。

「自分が自分らしく前にでていけるようになること」
私にとっては誰かの補佐ではなく、私らしく目の前のお客さまと向き合うこと。
一緒に目の前のお客さまの幸せを探すお手伝いをさせてもらうことだったようです。

さらに私にとってのイノチグラスの魅力はその作り方にあります。

イノチグラスの測定は
「答えはわたしの(あなたの)中にある」
という考えを元に進めます。

見え方だけに留まらずに、ご自身の内面にアプローチしてもらいます。

どんな世界を見たいか。
どんな自分になりたいか。

そこからメガネ作りは始まります。
メガネを作りにきて、そんなことを聞かれるので最初は戸惑う方もいらっしゃいます。

「どんな世界を見たいか」を見つけてもらうまでの対話の時間が私は大好きです。

今までの人生について話してくれる人。
今直面している悩みについて打ち明けてくれる人。
「毎日が楽しくて特に問題はない」と話してくれる人。
「よくわからない」と多くを語らない人。

誰と話していてもその人らしさを感じられます。

対話を進めていくうちに、
ご自身の中にある答えを探し、それを表現してくださるようになります。

「どんな世界を見たいか」をことばにできて、
自分の感覚としっくりきたのを感じている時、
みなさん本当にとてもステキな表情をされます。

そして、
「よく見える」ではなく、
「見たい世界を生きられそうか」
「なりたい自分になれそうか」
を意識しながらご自身の感覚に従い測定を進めます。

私はご本人の見たい世界にたどり着けるように伴走させてもらっています。

望んだ世界が見えた瞬間、皆さん本当にキラッと輝きます。
興奮して喜びを表現してくれる人。
ずっと「わからない、わからない」と言っていたのに、無言になって周りを見渡す人。
静かに涙を流す人。

いつも心震えます。

見つかった「見たい世界」
どんなふうに見えているかはご本人にしかわかりません。
その人の目を通して見る世界はその人だけのものです。
一つとして同じ世界はありません。

自分にとってのピッタリを見つけられたからこそ
安心、快適、心地よい世界が広がります。
そして、それを自分で見つけられたこと、そのことが自分の自信につながります。

「誰もが自分らしく自分色に輝く」
みんな違って当たり前。
違うからこそ美しい。

自分を見失ってしまっている人。
悩みに飲み込まれてしまっている人。
そんな人が本来の自分を取り戻し、
その人らしく輝くお手伝いをしていきたいと思っています。

イノチグラスはその一歩を踏み出す後押しをしてくれる。
私は私自身の体験を通してそう強く確信しています。

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